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山形県山形市東青田5-4-53

どんどん焼きって何?

山形独自の食文化『どんどん焼き』

食のイベントコーディネーター 工藤 真一

 

お好み焼きの始まりが「千利休」なら、山形どんどん焼きの元祖は「大場亀吉」

この看板に見覚えがある四十五歳以上の山形市内の方はいませんか?

汚れた手ぬぐいをベルトに挟み、下駄を履いた小柄なおじいちゃんが屋台に掲げていた看板です。そのおじいちゃんこそ、箸に巻くどんどん焼きを考案した大場亀吉さんでした。

山形のお祭り事には欠かせない「どんどん焼き」。

その起源を調べていくと、安土桃山時代までさかのぼります。

茶道の開祖、千利休主催の茶会を記録した『利九百会記』に、饅頭や焼き餅、煎餅などと共に「麩の焼き(ふのやき)」というお菓子が数多く登場します。これは当時の京都について書かれた『雍州府志(ようしゅうふし)』(1684年)によると、「小麦粉を水で練り鍋に薄くのばして焼き、片側に味噌を塗り巻いたもの」と記されています。今でいうクレープのようなものだったのではないでしょうか。現代のどんどん焼きを始め、もんじゃ焼き、お好み焼きなどの歴史はここから始まっているようです。

江戸時代、この麩の焼きが流行し庶民にも広がっていきました。この頃の製法は、小麦粉を水で練り鉄板に薄くのばして焼いたものを、山椒や胡麻などを使った味噌で味付けすることが多かったようです。

その後、江戸では「助惣(すけそう)焼き」と呼ばれるものが売られるようになりました。これは味噌ではなく餡を包み、江戸名物として珍重されました。そして京都でも餡を包んだ「金鍔(きんつば)」が生まれました。そして金鍔は江戸時代後期に大流行したと言われています。

一方、同じ江戸時代後期、麩の焼きが元となり文字焼きが生まれます。これは鉄板に文字が書けるほど薄い生地を焼いたことから、「文字焼き」と呼ばれていたようです。また、寺子屋で子供たちに文字を教えながら、実際に文字や動物の形に焼いて覚えさせたのが始まりだという説もあります。

そして、明治時代に入ると舞台は下町の駄菓子屋に移ります。当時の主な材料は、桜えび、キリイカ、揚げ玉、ベニショウガ、野菜などでした。当初はお店の人が焼いてくれてたようですが、次第に子供たちが自ら焼くようになり、現在の「もんじゃ焼き」と呼ばれるものの形態へと近づいていきました。

その背景にはこんな話があります。お店の人が焼いていた頃は、現在のもんじゃ焼きのようにドロドロとしたものではありませんでした。それが子供たちが焼くようにやると様子が変わりました。当時の駄菓子屋は子供相手だからと、小麦粉を多めの水で溶いてそれを焼いていました。そのただでさえ薄い状態に「量を増やしたい」という子供の願望が加わり、お店の人が見てない所で水を足しどんどん薄くなっていきます。そうなると、量はなかなか減らないものの、固まってくれません。そこではがし(フライ返しのような形をしたへら)を使って乱暴にかき回しました。もちろん、醤油やソースは塗れない状況なので最初から混ぜ、かき回したといいます。これが、今のもんじゃ焼きの元祖だと言われています。

大正時代、駄菓子屋とは別に屋台でも売り歩くようになりました。しかし、駄菓子屋のようなゆるい粉では持ち帰りようとしては適していませんでした。その屋台で売り歩いていたのが「どんどん焼き」です。その屋台では客寄せのため、太鼓をドンドンと叩きながら売り歩いていたのでこう呼ばれるようになったのです。

そして大正11年、関東大震災後、どんどん焼きは様々な地域へと広まっていきます。地域によってはこの屋台で今川焼きのようなものや、飴なども売られていたこともあったため、今川焼きのことをどんどん焼きと呼ぶ地域があるそうです。また、主に関西方面に伝わっていったものは「一銭洋食」と呼ばれるようになりました。家庭の食卓ではまだ珍しかったソースが塗られてあったため、この名前が付いたようです。やがて戦後には、この一銭洋食が現在のお好み焼きへと発展していくことになります。

さて、いよいよどんどん焼きが、山形にやってきます。どんどん焼きを焼いている現役最年長の川口松雄さん(当時 78歳)の歴史とともに繙いていきます。

川口さんがどんどん焼きを始めたのは昭和33年(1958年)36歳の時。その当時のどんどん焼きはすでに棒に巻いてあり、醤油味で1本5円だったそうです。しかし、現在のように箸二本で巻かれていたわけではありませんでした。一本棒に巻かれていたのです。川口さんは一本棒巻を見よう見まねで真似たのですが、初心者には難しく二本棒で巻くことにしたそうです。

現在のファーストフードのような手軽さが生まれました。具はかつお節、ねぎ、そぼろ、紅しょうが、ごまなど七種類から二種類を選ぶというもので、それらを粉に混ぜ込んで焼き、醤油を塗って一銭で売り歩いていた。

その後、戦争が始まり統制により材料が手に入らなくなったため商売を続けることが出来なくなってしまった。しかし、戦後に復活を遂げ、お祭りにも出店するようになった。当時の山形市内のお祭りでは、大場さんの屋台が唯一でとてももてはやされ、昭和30年頃までは独壇場が続きます。

川口さんが始めた昭和33年には、大場さんを含め5~6人がそれぞれ別々のルートを毎日売り歩く「ながし」をしていました。その日に使う小麦粉はその日のルートの米屋に立ち寄り購入してた。当時は客が持ち込んだ卵を入れて焼いてくれたりもしました。それは子供たちのひとつの楽しみになっていました。大きさは現在のものより二周りほど小さかったといいます。それでも大人も子供も買いに来る人気の食べ物でした。

昭和40年代になると屋台を引く人は山形市内では18人を数え、男性は8人ほどで女性の方が多かった。この頃になると大場さん以外の人もお祭りに出店するようになります。山形市の八幡神社では、ながしをしていた人たちのどんどん焼きと焼きそばが交互に並んだそうです。そこでも大場さんの焼くどんどん焼きは一番の人気がありました。また、魚肉ソーセージの輪切りが付くようになったのも当時全国的に普及したこの頃でした。そして、どんどん焼きは徐々に山形市外でも売られるようになっていきます。

そして現代では、山形市内に限らず、庄内地方を除く県内全域、また仙台、岩手、秋田、はては東京にまで山形の箸に巻かれたどんどん焼きが「棒巻のお好み焼き」といわれて売られるようになりました。山形のどんどん焼きは山形が生んだ全国に誇れる独自の食文化です。決して「お好み焼き」とは呼ばないで、「どんどん焼きちょうだい」と言って買いに行きましょう。

今月から七日町ほっとなる広場にオープンした「夢や」で本物のどんどん焼きが味わえます。あのチープな味が美味しいはずです。(※ 当時の記事です。現在、お昼はヨークベニマル大野目店内、夜は七日町屋台村 鉄板居酒屋 夢はな にて食べられます。)

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